人に理解されないこと、誤解されることは気持ちの良いものではありません。
正当な評価を得られなかったり、濡れ衣を着させられた時などは、つい説明・弁明したくもなりますよね?
しかし、こういった問題を説明や弁明でクリアできるかというと、それは難しい話です。
特に誰かとのいさかいや討論の場ともなると、言語のみで乗り越えるのは至難の業です。
母国語でない私たちは、絶対的に不利な立場ともいえます。
そういった場面で私が考えるのは、”理解を得ること”と”支援を得ること”の違いです。
説明や弁明で理解を得るには、正確かつ綿密な説明やニュアンスが必要です。
これは、日本語での会話においても難しいことですし、他人の思惑などが介入するともっと厄介になります。
私がそういった状況に陥った場合は、自分の正当性や正義には執着しないようにしています。
なかなかこういった立場をひっくり返すのは難しいものです。
そのため、相手や周囲に”理解を得ること”よりも、相手と共通できる部分を探り、”支援を得ること”に努めます。
自分を正当化することは、相手をねじ伏せることとイコールになってしまう側面もあります。
そうならないためにも、双方の利益や合意できる目標があるかにシフトチェンジします。
もしくは、相手が反論できないほどの大義名分や双方ともに認めざるを得ない理想を探すのです。
誤解やプライドは一旦捨て、その目標に向かって最大限の”支援を得ること”に着目していきます。
仕事の面では、結果さえ得ることができれば、実利を得る方が物事が有意義に動きます。
相手と対峙して悪い方向に向かってしまいそうな時は、一呼吸置きましょう。
何も考えずに発せば、今よりも悪い状況になってしまうと思いませんか?
相手と同じ目線で同じ目標に向かって進める仲間であることを演出、目指す方が総合的に見て良い判断だといえます。